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やっぱり日本は終わりだ
<安倍首相からの一斉休校の掛け声に対し、「子供の教育の機会を奪うな」と反対した親がほとんどいなかったことを嘆いた筆者のコラムに多くの反響が寄せられた。以下は、それに対する回答だ>
やっぱり日本は終わりだ
子供が学校ではなく学童に送られたのは大人の都合 Issei Kato-REUTERS
昨日の記事に対して、予想以上の反応があったが、多数いただいたコメントは大変興味深かった。
大きく分けて、3つの意見があった。
第一には、教育よりも生活、命が重要だと。命あってのものだね、生活が成り立って初めて教育にいけるね、というものだ。
これは近代社会が否定してきた概念だ。。
義務教育がほとんどの国で憲法に定められているのは、自分の生活のために、子供の教育を犠牲にしないように、親に教育義務を課すものだ。教育より生活が重要というのは120%間違いだ。子供たちは社会の最も重要な資産だから、子供の教育が親の生活の犠牲になってはならない、というのが近代社会の前提条件だ。
さらに言えば、命よりも教育は重い。短期的に、生活や命を救っても、社会がそれによっておかしくなるのであれば、将来の何千万、何億もの命が失われることになる。したがって、目先の生活よりも教育が大事であり、目先よりも社会の将来、人類の未来が重要なのである。
目先の一つの命よりも、将来社会の多くの命が重い、と書くと、多くの批判が寄せられるだろうが、この論点を議論するのは重要なことだが、残念ながら、今日はそんな深遠な社会思想の議論をする必要はない。
<学校より危ない学童>
なぜなら、教育よりも命が大事だという人々が、学校から子供たちを追い出して、学童に子供たちを押し込めることを攻撃していないからだ。子供たちの感染リスクという点では、学校の方が広いし、人手はあるし、圧倒的に感染リスクは低い。学校を休校にすることを支持するならば、学童、託児所を閉めないことに対して、半狂乱になってでも、反対しないといけない。ところが、その動きは目立たない。
学童や託児所を開けることを容認しているのは、大人の都合だ。働きに行けないからだ。つまり、経済を、生活を優先させて、子供の命をリスクにさらしているのである。これこそまさに、多くの近代社会が危惧したことで、親の都合、生活、カネのために、子供をリスクにさらしているのである。
学校を閉めてまで、もとから低い感染リスクをさらに低くしたいのであれば、仕事は休むしかないし、休まないのであれば、学校教育よりも仕事の方が重要だ、ということを告白しているに過ぎない。会社が休ませてくれないのであれば、そんな会社は辞めてしまえ。あるいは政府を攻撃するより、その会社を、会社の短期的な利益、都合のために、子供たちの命を犠牲にする会社を攻撃して、つるし上げたらよい。
結局、生活よりも教育は重要でないし、子供の命よりも、自分たちの生活優先なのだ。
学校軽視の暴論
第二の批判は、教育は学校だけではない。むしろいい勉強の機会だ。いまどき学校よりも勉強の効率の良い手段は沢山ある。学校の授業なんて教育の一部に過ぎないし、その代替手段もたくさんある、というものだ。
これこそ、わたくしが、日本が終わりだ、と絶望した理由だ。
日本社会では「教育」という言葉は大好きだが、教育自体には関心がない。重要と思っていない。この書き方に反発を覚える人たちも「多くの人々は学校教育は重要でないと思っている」というわたくしの批判に対しては、そうだよ、学校教育にいまさら何を期待しているの、というに反応するだろう。
それが日本の終わりなのだ。
学校教育が重要でない社会。そんな社会は終わりだ。世界中どこにもない。学校教育は重要だが、国の予算がなくて、教師の人材不足で、インフラが整わず、とか、そのような貧しい国は多くあるが、学校教育が重要でない、授業が重要でないと社会の多数派が思っている社会はこの世に存在しない。
今の日本だけだ。
<もっと教育の中身を問え>
学校での教育がもっとも価値のあるものであるから、わざわざ学校を作って、義務にして、義務は9年間、多くの人は12年間、半数以上は16年間学校教育を受けている。人生の16年間をそれほど価値のないものに費やされるというのは、効率が悪いどころか、完全に他の社会に置いて行かれる。
学校の側に原因がある、ろくな教育をしていないなら、もっとそれに怒りをぶつけるべきだ。なんでもっとよい教育をしないのかと。入試制度の変更に騒ぐよりも、授業そのものの内容、質、効率性を批判し、提言をするべきだ。
やはり、社会として、学校教育、とりわけ学校の授業は役に立たないと思っているのだ。
だから、やっぱり日本は終わりなのだ。
第三の批判は、私の傲慢な人格、読者のテイストに合わない文章の書き方、頭の悪さ、に対するものだ。これは記事の内容には無関係なので、日本が終わりという結論には変わりがない。
私個人への批判は、今後もいつでもどうぞ。

日本果然要完。
【日前关于作者在新闻投稿中提到的:‘对于安倍首相要求全国学校停课的要求,几乎没有家长对此表示反对,无人对此觉得‘不要剥夺孩子受教育的机会啊’。’一事,近日我受到了多方读者的回复。以下内容便是我对此的回答。】



不把小孩送到学校,而是送去学童班,完全是为了方便大人。 Issei Kato-REUTERS
对于我昨天的报道,大家的反应在我预料之外,我觉得很多评论都非常有趣。
大家的意见大致分为三种。
第一便是比起教育,生活、生命才是重要的。毕竟有生命才能够接受教育。而且只有生活受到了保障,才能够去接受教育。

但以上这种概念是近代社会开始否定的一种概念。
义务教育之所以会被几乎大多数国家都列入了宪法,是因为各国都为了不让大人只顾保障自己的生活而牺牲孩子的受教育机会,所以对家长施加让孩子接受教育的义务。所以,那种觉得比起教育,生活更重要的这种思想是大错特错的。因为孩子们是社会最重要的资产,所以孩子们受教育的机会绝不可为保障父母的生活而被牺牲,这一点也是近代社会(发展)的前提条件。

更甚至,我们可以说比起命教育更加重要。因为就算短期内我们保证了自己的生活与拯救了性命,但社会如果因此变得失常,那么便会造成在将来,我们社会会失去数千万乃至数亿的生命。因此比起眼前的生活还是教育更加重要,比起眼前还是社会的将来,人类的未来更加重要。
‘比起眼前的一个性命,还是将来社会的众多人们的性命更加重要’——这么说可能会有很多批判杀到吧,虽然讨论这个论点是非常重要的,但很遗憾,今天还没有讨论那么深远的社会思想的必要。



日本社会很喜欢‘教育’这个词,但对教育工作本身却并不抱予关心,并且也并不认为它有多重要。
我觉得很多人都认为学校的教育并不重要,对此,可能会有很多持反对意见的人们认为是‘确实如此,如今大众对学校教育还有什么期待呢?’的吧。
而这一点也正是日本要完的原因。
一旦社会不重视学校教育,这个社会也就完了。而且找遍全世界也找不到一个这样的社会。虽然世界上有很多认为学校教育很重要,但是国家没有预算,且教师的人才不足,社会基础设施无法配设到位因此教育事业不兴旺的贫穷国家,但世上却不存在一个大多数人认为认为学校教育并不重要,上课也并不重要的国家。
有也仅仅是如今的日本而已。

【更加探究教育的内涵】
正因为在学校接受教育是一件非常有价值的事,所以人们才会特地建造学校,把接受它的教育它列入义务,且接受义务教育的年限是9年,且大多数人接受的都是12年教育,一半以上的人接受的是16年的学校教育。如果学校教育真是如此没有价值,那把16年的人生花费在如此没有价值的东西上,不仅是效率低下,日本也会完全被其他社会给超越的。
如果学校方有过失,导致人们没有接受良好的教育,那么人们应该对此发怒才是。比如责问学校为什么没能为人提供更好的教育。比起指责高考制度的变更,人们应该更加批判上课的内容、质量以及效率性,并为此谏言才对。
综上所述,社会认为学校教育特别是学校的授课是没有用的,才会做此反应。
所以日本才真要完啊。

第3种对我的批判便是指责我人格傲慢,文章写法不符合读者口味,且脑袋迟钝。这些批判都与报道内容无关,所以我认为日本要完的结论并不会改变。
今后也随时请大家批判我个人。
小幡绩:庆应商学院的准教授。